ひのもと-HINOMOTO-について

ひのもとは京都府の南部、綴喜郡(つづきぐん)宇治田原町禅定寺(ぜんじょうじ)という地域にあります。

後ろの山がそびえ立ち、周りには畑と茶畑があります。裏山は自然豊かでたくさんの生き物がいて、里山の風景が広がっています。

この宇治田原の禅定寺というところ、しっかりと人が住み始めたのは六~七世紀ごろと言われています。ただ、遺跡の出土などからは紀元前から人が居た形跡はあったとか。

世の中は移り流れて来ました。京都では応仁の乱があり、全国的な百姓一揆があり、日清日露戦争、先の大東亜戦争。

その中でもこの宇治田原は都に近く、自然も作物も豊かであったことから、皆幸せに暮らしていたのだろうと記録が残っています。「宇治田原町史・第二巻」より。

ここひのもとでは、明治初期から昭和の初期にかけての全国の農村及び宇治田原の暮らしを再現するような体験を目指しています。それにはその頃の宇治田原の方々がどのような暮らしをしていたのか知ることが大事かと思います。

「宇治田原町史・第二巻」によれば、明治の頃の宇治田原は今よりも山林面積が多く、90%も占めていたそうである(今は70%ほど)。人口の94.8%が「農」に従事、医者は三人。純農村、茶の町である。

町民の生活は書くも過酷で、90%もある山林資源を有効活用し、建築資材はもちろん、雑木、枯木、枯枝、下草などは燃料や農業生産の肥料として常に自然と共存していた。

農閑期の労働力は山林に吸収され、木材の伐採、薪炭、枝柴、小柴などの生産、搬出や萱(かや)刈、下草刈り、松葉拾いなどを行い山の手入れ、管理を入念にし、常に山林を生活の糧としての稼働となっていた。

建築材の搬出は男手の仕事で、木馬(きんま・木製のソリ状の搬出道具)によるか、肩の力で担ぎ出しが常で、また薪炭は主として女子が受け持ち、一回に約60㎏を背負い幅一米内外の山道を手甲、脚絆、草履姿で杖を頼りに車の通う場所まで搬出していた。

山を大切に、厳しく村定法を作り、厳守していた。そうである。

町内では献上していた松茸も採れたそうである。品質は最上級、町の移り変わりと共に今は採れないそうである。

と、明治から昭和にかけてはこのような過酷な生活を町民は送っていたのだろう。朝起きて、夕方家に戻る頃にはくたくた。今の便利な世の中では想像もつかないこと。それを再現するわけにはいきませんが、朝、一日の炊飯の支度をすることと、夕方に一日の疲れを癒すお風呂は再現できることです。先人の苦労と発展への努力に敬意を表して私はこの古民家を活かしたいと考えています。

建物は築九十年の木造二階建ての古民家です。もとは宇治田原村の村長が住んでいたそうで、作りも立派で日本の技術が詰め込まれていました。

近所の方のお話では、上に田んぼは三枚、牛を飼っていて脱走したことがあるとか。前も一面田んぼだった地で、裏山は地域の方々と薪を分け合って取っていたとのことです。

まだまだ発展途中ですが、ひのもとの想いとさせていただきました。

もう一つ、日本人は信仰とともに生きてきた民族です。今でいう新嘗祭は昔大嘗祭(だいじょうさい・おおにえのまつり)をとても大事にしてきました。それは別ページで(準備中)